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第171報 2011年05月18日(水)
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311からのぐるっと世界
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3月11日はフィンランドで学会に参加していました。この日の午後が自分の発表だったので、準備に追われながらもネットにくぎ付けになっていました。
学会では会う人会う人に心配されましたが、家族の無事は確認していたので問題はありませんでした。
地震、津波、火災、停電、原発と、つぎつぎに広がる被害に驚きましたが、彼の地では何もできないので、ひたすらNHKを見ていました。
ユバスキュラを発つ頃までには、原発の惨状が明らかになっていました。この頃、日本のメディアでは「海外は騒ぎすぎ」との意見が聞かれました。しかし、海外のメディアは「日本は事態を甘く見すぎている」と捉えていました。
そして、1号機の水素爆発を境に、日本での報道はどこも同じような情報を載せるようになっていきました。
スウェーデンの日刊紙はさまざまな分野の有識者に意見を聞き、毎日新しい解説を載せて幅をとろうとする姿勢が見られました。一方、日本の新聞は次第に「大本営発表」への依存度を高めていったように感じました。
そんな中、スウェーデンに戻った僕は、帰国を延期する場合に備えてホテルをキャンセルし、安いユースホステルに引っ越したり、安定ヨウ素剤を購入したりしました。まだ一般の薬局にヨウ素剤が残っていたので、かろうじて手に入れることができました。
状況が落ち着かない中でしたが、当初の予定通りブレッケを再訪し、学校を見せてもらいました。
また、教育長や元校長にインタビューをし、ショッピングカート1台分の大量の市政アーカイブを譲っていただいたり、市長や市議の方とお会いしたりしました。ブレッケの方々も
「今は日本に帰るべきじゃない。すぐに奥さんや家族を呼び寄せなさい。家とかはこちらで用意するし、働き口も手当てするから」と仰ってくれました。
ウプサラではグルンテン・モンテッソーリ学校を見せてもらいました。きっかけはヘンリックたちが作ったビデオでした。ノートパソコンをひとり1台渡しているこの学校では、わずか半年前に取り組み始めたのにも関わらず、
「パソコンを習う」という域はとっくに超えていて、子どもたちがものすごいペースでICTの世界を生み出していました。モニカ副校長が語る「子どもを信じる」という哲学は徹底していて、フィルターも一切かけていませんでした。
問題が起きたら、そこが学びのポイントになるという見方で、パソコン利用のルールも非常に柔軟に考えていました。そんな環境下で、調べ学習やレポート作成は当然の如く、
音楽では子どもたちのバンド演奏をビデオに撮り、パソコンで編集させたり、DVDを作らせたりしていました。夏までにはYouTubeやiTunesにビデオをアップロードして収益を上げられるように指導したいと考えているようです。
週末は被災地に向けて、ウプサラ在住の日本人たちで募金活動をしました。中心街で募金を呼び掛けると、無愛想に大金を入れていく人、財布をひっくり返して中身を全部入れていく人、小さな子どもに硬貨を握らせて入れていく人、ぶつぶつ言いながら入れない人、南北問題やら移民問題やらの議論をふっかけてくる人、宗教の勧誘をしようとする人など、本当に様々でした。
短時間でしたが、驚くほどの金額が集まりました。会ったこともない他人にここまで思いをもってくれるのか、と目頭が熱くなりました。
特に印象的だったのが、チリからの移民たちです。「去年の地震で私たちが被災した時、あなたたちが助けてくれた。その恩を返すのは今だと思っている。本当に感謝している」と言ってみんなで募金をしてくれました。世界はこうやってつながっているんだな、と学びました。
21日には予定通り帰国することにしました。日用品の買占めが報道される折、ミュンヘン経由だったので、パンや飲料をスーパーで買いこみ、まるでおつかい帰りのような格好で空港に行きました。
そして、最後の最後、免税カウンターでもお姉ちゃんが「今は帰らないで。私がドイツ政府に交渉するから」と言ってくれました。もう出国手続きは済んでいたので、どうしようもなかったわけですが。
帰国後は意外なほど日常な東京にびっくりしました。成田について早速震度4の余震がありましたが、まわりの人たちは「あ、地震だね」という程度で、まったく平常心でした。計画停電も一度も経験せず、通信も流通もだいたい回復していました。
放射線量を気にしながら洗濯物を干したり、ミネラルウォーターを使ったり、雨にあたらないようにしていましたが、その最中に人間ドックでCTスキャンを受けたりというあべこべな生活をしていました。
3月末には7年間在籍した東京大学大学院を中退(単位取得退学)しました。そして4月からは日本学術振興会の特別研究員という肩書きになりました。お国からの給料で、むこう3年間は食いつなげる見込みです。
4月中旬には引越し先を決めました。同じ武蔵野市内ですが、少し西寄りになります。いまの2倍の家賃で2倍の広さになります。
ゴールデンウィークはフィリピンへ。マニラに一泊、セブ島に4泊しました。セブでは10年ぶりのスキューバダイビングに挑戦し、見事に風邪をひきました。これまで一人旅が多かったので、リゾートには行ったことがありませんでしたが、
上げ膳据え膳の贅沢は心地よかったです。
さて、4月14日に30歳になりました。二十歳の時は良平が大泉に来てお祝いをしましたが、今回は大磯で家族全員が集まりました。さあ三十路、働き盛りの時代に入りますが、感謝と謙虚、寛容の気持ちを忘れずにいきたいと思います。
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ウプサラで募金活動
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セブの海にダイブ!!
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第172報 2011年09月03日(土)
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電力ダイエットで日本を応援
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セブ島での富豪生活から戻って、ゴールデンウィークが明けた頃に引越しをしました。2階建てで広くなった新居では、二か月くらいかけてゆっくり片付けをしました。
冷蔵庫と洗濯機、パソコンを最新の節電モデルに替え、ソファや北欧テイストの家具を新しく買いました。お風呂も広くなってとても快適です。電力料金を抑えるために、家中のランプをLED電球に取り換えました。
40Aだったブレーカーも東京電力を呼んで20Aに替えてもらいました。これだけで月々の電気代が6000円弱から3000円強に減りました。電力ダイエットを絶賛実施中です。
震災の影響で大学は新学期のスタートが遅くなり、その分学期末も遅れました。毎週金曜日には所属先の聖心女子大学で澤野先生のゼミにお邪魔していました。
先生も含めて4人という圧縮授業では、自由な雰囲気の中でとても刺激的な議論ができました。授業がきっかけで冒険遊び場(プレーパーク)やミニ・ミュンヘンのことを知り、さっそく千葉の「どんぐりの森」に遊びに行ってきました。
久しぶりに学校以外の場所で子どもたちと触れ合って、学部時代に児童館に行っていた時のことを思い出しました。
毎週月曜日はるいるいと葛飾の学校へ行っています。子どもたちの生き生きとした姿が週明けのカンフル剤になっています。
先生方も「学校の現実」を隠さず見せてくださって、得難い機会をいただいています。「研究」と称して、いろいろ提案してきましたが、7月にはiPadやノートパソコンを使った算数の授業が実現しました。
武雄市などの事例を見ても、パソコン1人1台の時代は日本にも近付いてきているようです。
6月末はOECD主催のPISAセミナーに参加しました。お馴染みの方に新しい方を紹介していただいて、世界の教育関係者とのつながりがまた広がりました。大学院生の時によく本を読んで、一度お会いしたかった著名な教育学者マイケル・フラン先生ともお話しできてうれしかったです。
7月に入ると、ウプサラからしずかさんファミリーがやってきました。メイド喫茶に行ったり、江戸東京博物館や河童橋に行ったりして馬鹿騒ぎに明け暮れました。
しおりちゃんとかクワエさんとか「お仲間」を紹介してもらいました。
それから、8月にはついにゆかこさんが初来日しました。午後の一息を秋葉原駅の喫茶店で喋りまくっただけになってしまいましたが、どこで会っても変わらないようで、とても楽しかったです。
そして、三宅島!!今年は直前に明子も参加することになって、塩野さん、保田さん、きーちゃんと僕の5人で行きました。三宅島の前に八丈島にも一泊して、島寿司と焼酎を堪能しました。
三宅ではマリンスコーレというお祭りに参加して、八丈からやってきたサッカー少年たちとか、保田さんの元クライアントとか、裕也とか海舟とかを巻き込んで楽しみました。
風が強くて、天気もころころ変わったので、海はあまり長く浸かっていられませんでした。その分「食」がメインになって、食っちゃ寝の生活をしていました。
最後の夜はみずきのうちで豪華な割烹料理をいただきました。今回、震災の後とあって、祭りや商店では「災害に負けない!」とか「いっしょにがんばろう!」といった、被災地を励ますメッセージを見かけました。
噴火から10年たって、映画「ロック〜わんこの島〜」なども公開される中で、「被災地の先輩」として、三宅島の復興が少しでも東北のモデルになればいいな、と思います。
8月はほとんど何もしていません。こんな夏休みがあっていいのだろうか、というくらい暇でした。週末は自主キャンプに行ったり、家族旅行で鳥羽に行ったり、静岡でBBQをしたりしましたが、平日はみごとに空白でした。
かといって、研究が進むわけでもなく、なんとなくただだらだらとして過ぎ去って行きました。こんな贅沢な夏はもう二度と来ないでしょうね。
その間、WCBFの子たちが大活躍でした。スウェーデンの子たちは国代表でヨーロッパの選手権大会に出場し、またその試合会場で他の国からの参加者に再会する、といったことがあったようです。
今夏のWCBFは台湾で開かれていましたが、国際試合では去年の大会に参加したタイやイタリアの子たちが国の代表で招聘されていました。日本でも彪我がリトルリーグの地区予選を勝ち上がり、全国大会に出場しました。
彼らがお互いにWBCやオリンピックで対戦したり、メジャーリーグのチームメイトになったりする日が来るのはもう間違いないでしょう。11年前の横浜大会に参加していた竜哉はお父さんになり、美那はアメリカに留学中と、みんながそれぞれの道でがんばっています。
13日からはヨーロッパです。Rightsのロンドンスタディツアーに同行することが主な目的ですが、その前にウプサラ、その後にミュンヘンにも少し寄り道をする予定です。
あと10日後には出発だというのに、まだ何も準備ができていなくて、前回飛行機に乗り遅れた悪夢が再来するのではないかと恐れています。学校も始まったわけですから、夏休みモードから切り替えないといけませんね。
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彪我がリトル全国大会で活躍
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災害に負けない!三宅島
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第173報 2011年11月10日(木)
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WORLD CLASS
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相変わらずな生活です。月曜日は小学校に行き、火曜日は法政大学で教え、木曜日は聖心女子大学に出かけ、それ以外の日は勉強会やら取材やら飲み会やらが散らばっています。
一般の社会人に比べると自由に使える時間が多いので、遊んで暮らしているように見えますが、これが意外と忙しかったりします。今週は疲れすぎてついに声が出なくなってしまいました。
時間管理が甘かったと反省。この間、小学校でのiPadを使った授業や、デジタル教材開発、大学の授業を小学校の教室でやるSchool based teacher trainingの実験、Facebookを活用した大学の授業など、
小さいながら少しずつ歩みを進めています。
ロンドンと上海に行ってきました。ロンドンでは、若者の社会参加やシティズンシップ教育の現状を見ようと、ユースセンターや学校、NPOや公的機関を訪問しました。
移民、貧困、ジェンダー、階層、世代など、あらゆるカテゴリーで格差や不平等が問題になり、複雑さを抱えるイギリスでは、放っておくと排除されていく人たちをいかに社会に統合するかということが長年の課題になってきました。
支援を必要とする多くの人たちは一つだけでなく、複数の問題を抱えているため、学校、福祉、警察、医療、職安などがお互いに手を取り合って対応する必要があります。
これまでConnexionsと呼ばれる協働が進められてきましたが、協働だけでは痒いところにもう一歩手が届かない感じがあって、保守党に政権交代した後は見直しの動きがあるようです。
コストカットも大きな流れですが、効果的な運用のために、ユースセンターを拠点とした統合サービスへと向かっていくのだと思います。
ユースセンターは社会の要請に合わせて次第にその機能と役割が変容していくように見えました。
ちょうど去年からご一緒させていただいている科研グループの研究テーマが「子ども・青少年行政の統合」というものだったので、同じような内容でスウェーデンの調査をしました。
スウェーデンはイギリスほど複雑ではないにせよ、やはり似通った問題に直面しています。日本ではスクールソーシャルワーカーの導入が提案されていますが、低コストで効果的かつ効率的に運営できる体制を築かないと長続きできないと思います。
ひと足早く課題に取り組むイギリスから学ぶべきことは多いと思いました。
そして、上海です。こちらは教育視察ということで、PISAで世界一になった秘密を探ろうというものでした。小学校、小中一貫校、小中高一貫校の3つの学校と2つの公的機関を訪れました。
学校には先進的な教育設備と勉強熱心な先生方、背筋の伸びた子どもたちがいました。100パーセント自前の収入で運営しているという私立学校では、タイプの異なる4つのコースが設けられていました。Aコースは主に外国人の子弟が通います。ネイティブの英語教師を配置するほか、マンツーマン指導が充実しています。
Bコースは少人数指導が特色で、ひとクラスを15〜20人に設定しています。Cコースは芸術やスポーツに特化しています。その道の専門家を招いて特別な指導が受けられます。Dコースは一般の公立学校と同じように、ひとクラス40〜45人程度で編成されています。授業内容もまったく普通です。
それぞれのコースの授業料は細かく設定されていて、例えば中学生のBコースは学期あたり10000元、Dコースは6000元です。外国籍の子どもは14500元で、小学校はこれから1000元減額されます。学校訪問の際に子どもたちに聞いたときには、Bコースの子は年に8万元、Dコースは2万元払っているということでした。
同じ学校に通う子どもたちが、経済的背景によってこちらは8万元コース、あちらは2万元コースで勉強するという仕組みでした。この学校は地域のディベロッパーが建てましたが、この会社が立てた不動産を購入した世帯は授業料が安くなり、賃貸で住んでいる家は割高になるといった設定もされているそうです。
これによって、自社不動産の価値を高め、魅力的な地域に開発しようという狙いのようです。共産主義と侮るなかれ、市場メカニズムを考え抜いた上で戦略を描いているのだと感じました。
ロンドンと上海の間に、魚沼市にも行ってきました。雨がちながら、外に出るときはいつも降り止むという不思議な天気でしたが、おいしいごはんをいただき、農家の人たちの今昔を体験してきました。
さて、今日はヨテボリからヨーンの家族が来ているので、亮太、優希、勇人と一緒に秋葉原で遊びます。2年前の夏にこのメンバーで大磯ロングビーチに行って以来です。みんな大きくなりまして。
来週からは、外国のお客様がたくさん訪れます。14日からヨテボリ大学の先生がひとり、15日から同じく先生夫妻がひと組、20日からシンガポールの教育研究者、25日はフィンランドから偉い学者先生です。それぞれお世話になってきた先生方なので、この機会に心をこめて恩返しができればいいなと思っています。
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Rights英国スタディーツアー
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上海教育視察
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第174報 2012年05月06日(日)
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授業研究がスウェーデンで始まる
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しばらくご無沙汰していました。このサイトを始めてからそろそろ10年が経ちますが、最近はFacebookやらTwitterやら、便利なサービスがたくさん出てきて、いちいちHTMLを編集するのは時代遅れになりました。
10年前は電話回線を使ってインターネットに繋いでいたので、オフラインで編集し、「ピ〜ピ〜リロリロ」という接続音が途切れたら急いでアップロードして、完了したらすぐに切断する、ということをやっていました。
毎秒電話代がかかりますから、なるべく短時間の接続で済むようにあくせくしていた記憶があります。メールにしても、添付ファイルが大きいとダウンロードに時間がかかるので嫌われたりしました。
「メール文面の書き方」とかいう本が売れたりして、拝啓、敬具などをつけるのかとか、いろいろ議論がありました。それがADSLになり、光ファイバーが通り、常時接続、無線LANが当たり前になりました。
ウェブページには双方向的な機能がたくさんつけられて、画像のデータ量を気にすることもなくなりました。一日ごとの進歩は気づきにくいですが、10年を振り返るとめまぐるしく動いているように感じます。
さて、半年も更新をさぼっていたので、全部載せることはできません。今回は1月に行ったスウェーデンの小学校について書きたいと思います。
伏線は去年の11月に東大で開かれた世界授業研究学会です。日本は校内研究や公開授業の歴史が長く、組織もしっかりしているので、世界中の研究者から注目されています。この学会に合わせて、スウェーデンやシンガポールの研究者から日本の学校を訪問したいという問い合わせがあって、何人かを水元小にお連れしました。
スウェーデンの先生方の感想は「想像していた日本の学校とまったく逆だった」というものでした。外国人研究者がもつ日本のイメージは、通勤ラッシュの地下鉄にぎゅうぎゅう詰めになって乗っていて、それでも文句も言わずにきちんと整列したり、礼儀正しかったりするけれども、規律に厳しくて創造的な活動は苦手、といったものでしょう。
学校でも、先生の言うことは絶対で、静かに話を聞き、真っ直ぐ手を挙げ、暗記、詰め込み、テスト、テスト、テスト…という印象が一般的だと思います。日本人自身も、学校教育にこういったイメージを持っている人が多いのではないかと思います。
しかし、実際の小学校ではこういった場面はそれほど多くなく、実体験というよりもメディアを通じて植え付けられた印象の影響が大きいのではないかと思います。水元小を訪れた研究者たちは、先生方が教室のドアを開け放して、隣の教室と頻繁にやりとりをしていたり、子どもたちも自由に、活発に学習している様子を見て、印象が変わったと言います。
日本の小学校は、図工や音楽、体育、家庭科などに比較的多くの時間を割いています。国語でも、ずっとドリルを解かせるということはせず、先生が説明したり、子どもたちの意見や考えを言わせたり、グループごとに話し合わせたり、劇を演じたり、音読したり、空書きしたり、と相当工夫されています。
算数では、多くの学校で少人数授業が導入されています。スウェーデンで算数を教えていたときには、授業の最初に少しだけ先生が説明し、残りの時間はひたすら問題を解くということをやらせていましたが、日本の学校では、先生の説明により多くの時間が使われます。先生たち自身も、単に問題が解けることよりも、理解することを重要視する傾向があります。
TIMSSやPISAで好成績をあげている日本ですから、テストばかりで詰め込んでいるのだろう、と予想してきた研究者にとっては意外だったと思います。
こういった授業の深みというのは、日本の先生方が長い間積み重ね、引き継いできた財産です。学会にはスウェーデンの小学校の先生方も参加していましたが、日本の学校の質の高さに感動して、ぜひ自分たちの学校でも同じことを始めたい、と言っていました。
1月にスウェーデンを訪れた際、その学校の先生から教員研修の講師を頼まれました。ストックホルムから電車に乗り、雪が積もる湖のほとりを鈍行電車で30分ほど行った先に高級住宅街があります。このナッカ市は、スウェーデンで最も早く学校選択制を導入した街で、右派が強い競争的な自治体です。
比較的裕福な子育て世代が多く住み、子どもの数も緩やかに増え続けています。ですから、教育は政治のトピックになりやすく、学校の質を上げるためにはどうしたらよいかということがよく話し合われています。教員の平均給与は国内トップレベルの高さで、子どもたちの成績も優秀です。
イーゲルボーダ基礎学校に招かれた僕は、世界中の学校を見て回っている経験から、日本とスウェーデンの学校の強みはどこか、また、世界の教育のいまの課題は何か、についてお話ししました。先生方からは、スウェーデンが日本から何を学ぶべきかについてたくさん質問がありました。
最終的に、先生方から「イーゲルボーダ基礎学校は授業研究でスウェーデンの最先端校を目指そう!!」という提案が上がり、ひとしきり盛り上がりました。
この学校は新しい教育実践には積極的で、すでに多くの蓄積があります。子どもたちはひとり一台パソコンを持っていて、Facebookの活用も進んでいました。
最近では、用務員の問題提起をきっかけに、図書室(biblioteket)から本を撤去してメディア室(mediateket)を設置しました。メディア室にはグリーンスクリーンが置かれ、校内テレビ番組を作る実践を通して消費的な情報の利用から生産的な活用への転換を目指していました。
以前に訪れたウプサラのグルンテンの実践を紹介したら、ある教員の義妹が関係者らしく、いいところは上手に盗んでいるということでした。先生方は見るからに優秀で、授業もいくつか見せていただきましたが、教材の選び方から教え方、他の先生との連携など、とても工夫されていました。
また、学校教育庁で視学官をやっていたという女性を副校長としてヘッドハントしたそうで、実践に幅広く通じている管理職が多くいました。
さて、この学校、4月26日にはスウェーデンで初めて公開授業を実施しました。学会にも参加していたAnn-Sofie Berg先生が5年生に算数の授業をしました。ものすごくたくさんの先生方が集まり、テレビ局もやってきて、研究者や学校教育庁の職員も見学しました。
ニュース映像では「日本では公開授業の経験が積み上がっていて、この授業のすべてが記録されます。イーゲルボーダ基礎学校でも、それと同じことをスウェーデンでやろうとしています。」とナレーションされています。
学校教育庁の職員は「これはすごく良いアイデアだと思います。研究では、このような実践が子どもたちの学習にとっても効果的であることが明らかになっています。最もポジティブな展開は、先生から先生に、学校から学校に広がること、そうなるととても良いです。」と話しています。
このような協働的な実践がスウェーデンで最も競争的な地域で始まるというのが面白いところですが、テストの点数にこだわるだけでなく、先生たちの力量、学校の実力をじっくりと涵養していく方策として定着すると良いと思います。
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年末は中田家と白馬スキー
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イーゲルボーダ基礎学校を訪問
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第175報 2012年07月03日(火)
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『伊豆の踊子』を歩く旅
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ゴールデンウィークは両親と2泊3日で中伊豆の旅に出かけました。当初は夫婦でチェンマイに行く計画をしていたのですが、特典航空券の予約がうまくできずに断念しました。
麗子はその後インドネシア出張が入り、僕が独り取り残されることになりました。そこで、かねてからオーディオブックで聴いて気に入っていた川端康成の『伊豆の踊子』の舞台を物語の進行に沿って歩いてみることにしました。
ひとりで出かけようか、誰か友達を誘おうかとも思ったのですが、せっかくなので両親を誘って出かけました。直前は少し忙しくしていたこともあって、計画に数日、宿の予約もギリギリでしたが、結構空いていて難無く行けました。
さて、旅の出発点は旧制第一高校の寄宿舎という設定なのですが、早速これがどこにあるのか見つかりませんでした。でも、本文は「道がつづら折りになって」で始まる旅の4日目、天城峠からの記述になっているので、とりあえず修善寺温泉駅を起点にしても良かろう、ということにしました。
初日は小雨とにわか雨の合間に一時の晴れ間が覗くようなめまぐるしい天気でしたが、朝からえっちらおっちら車道を歩いて、湯ヶ島温泉まで行きました。道中のほとんどが県道で、両脇に田んぼや畑があるものの、特に景色が良い訳でもなく、凡庸な道のりでした。
県道はトラックや工事用車両が頻繁に通り、水をはね上げていきました。
お昼はお母さんが家から持ってきたおにぎりやバナナを道端でいただき、先を急ぎました。
湯ヶ島に着く手前に東京ラスクの工場があり、ちょうどおやつ時だったのでそこで一休みしました。
和三盆ラスクを買って、無料のコーヒーをいただいて、試食を食べて、少し落ち着いてから最後の一歩を踏みました。
湯ヶ島に着くと、ひとまず荷物を置いて、温泉街を歩いて回りました。
昭和の香り漂う風情ある温泉街で、良い雰囲気でしたが、お客さんはほとんどいませんでした。
鋭い渓谷にバブル期に渡した鉄橋があり、サスペンスドラマの撮影にぴったりなロケーションでした。
宿には熱めの温泉がひいてあり、露天や洞窟風呂なんかもあって結構楽しめました。
2日目は豪雨でした。朝、出発する前に2泊目の宿から電話があり、今日は歩いてくるのは到底無理だろうと告げられました。
ですから、午前中に天城峠まで歩いて、そこから先は無理ならばバスに乗ろうと決めて歩き始めました。
川の脇を大雨の中で傘をさしながら歩く親子3人です。道中はほとんど人に会いませんでした。
ただ、途中の滝は見事でした。「天城越え」の歌碑があって、石川さゆりの映像をyoutubeからダウンロードして聞いたりしました。
そして、ついに旧天城トンネルに到着!トンネルの壁から雫が滴り落ち、ビュービューと寒風が吹く中ですが、自分の足で歩いて通れて満足です。
寒くて風邪をひくかと思いましたが。
トンネルを抜けると下り坂になり、河津七滝の方に出ます。
川に沿って、山道を歩こうと思っていたのですが、記録的雨量で川が氾濫状態で、滝は少し遠くから見ていても巻き込まれて流されてしまいそうな、すさまじい迫力でした。
そして、万が一にも遭難したら困るので、それより先には進まず、バス道路に戻りました。ちょうど路線バスが通りかかったのでそれに乗り、湯ヶ野温泉まで行きました。
湯ヶ野では温泉郷で遅いお昼ご飯をいただき、宿に向かいました。宿は家族経営の民宿で、すべての部屋が一軒ずつの離れになっていました。
大雨の中でびしょぬれになってやってきた親子3人をとても快く受け入れてくれました。
温泉は露天風呂の小さいものでしたが、熱くてとても気持ちが良かったです。
そして夕飯がまた豪華でした。食べきれないほどの刺身や天ぷらに加えて、伊勢えびをその場で捌いて刺身を食べさせてくれました。
この2日間で相当な量の雨が降ったので、伊豆地方は土砂崩れの危険性が高まっていました。
3日目は湯ヶ野から下田に向かう予定でしたが、県道沿いを長い距離歩くだけになってしまうことが分かったので、予定を変えて河津までバスで行くことにしました。
バス停まで下りていくと、脇の川では毎年恒例の釣り大会が開かれようとしていましたが、あまりの水量で中止になっていました。
河津では散った後の河津桜の並木を見て、足湯につかり、墳湯を見ました。そして、夕方に電車に乗って帰ってきました。
予定通りとはいきませんでしたが、毎日よく歩いた3日間でした。文学碑もたくさん見つけて、歴史にも触れ、なかなかとっかかりのなかった中伊豆をよく知れた旅でした。
この他、5月には金環日食もありました。僕はいつもより1時間早く家を出て、小学校の校庭で子どもたちと一緒に見ました。ちょうど雲の切れ間が通り、都合良く見ることができました。子どもたちは朝から盛り上がりすぎたせいか、午後になるとどのクラスも倦怠感が漂っていました。
それと、スカイツリーの開業です。少し出遅れてしまいましたが、6月10日には、日の入りの時刻に合わせてチケットをとって行ってきました。普段よく飛行機から眺めているせいか、上からの景色にあまり驚きませんでしたが、エレベーターの早さはすごかったです。それと、下りエレベーターの装飾に使われていた江戸切子のステンドグラスが幻想的できれいでした。
そして、しばらくカンヅメの後、6月15日からは九州大学で行われた日本比較教育学会に参加しました。齢30を過ぎて、ようやくの九州初上陸です!細麺の博多ラーメンと明太子が絶品でした。
ひと仕事終えて、先週はゴールデンウィークの振替ということで中東に出かけてきましたが、その様子はまた次報にて。
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旧天城トンネル前にて
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金環日食に朝から大盛上がり
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